■ 生きたい1/19(日) 10:38配信






山形新聞








 本県で初めて透析を受けた山形市の渋谷悦子さん(69)が、治療50年を迎えた。日本透析医学会の統計では透析歴40年以上の人は全体のわずか0.3%。50年は全国で10人程度という。長年の治療で手足が動かしにくくなる人が多い中、渋谷さんは自身の足で歩き、簡単な料理もこなす。病とともに前向きに生き続ける姿は患者だけでなく、医師や看護師らにとっても「希望」となっている。

 「生きることに必死だった」。渋谷さんは高校生で慢性腎炎を発症した日から今までをこう振り返る。学校の健康診断で病が発覚。19歳の冬、県内第1号として透析治療を始めた。赤い血液が巡る長い管を見た時は一瞬ぎょっとしたが、不安よりも「生きたい」の一心だったという。

 当時、透析治療は健康保険の適用になったばかり。それまで金銭的に治療がかなわず、命を落とす人を間近で見てきた。患者会をつくる動きに加わり、1971(昭和46)年、全国腎臓病協議会(全腎協)が結成された。治療費補助や障害者年金給付など権利確立に尽力した。
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 半世紀も治療に耐えてこられたのは、痛みや不調など自身の体の“声”をじっくり聞いてきたからだ。透析器具や時間などは病院によって異なり、合わない治療を続ければ命の危険が迫る。「合わないものは合わないと医師に根気よく伝えるしかない」。渋谷さんは自分に合う透析治療を求め、宮城県古川市(現大崎市)に移住していた時期も。8年ほど前からは山形市で1人暮らしをしながら、市内の矢吹病院(矢吹清隆院長)に週3回通い、1回5時間半の血液透析を受けている。

 こうした妥協しない姿勢に周囲も勇気づけられている。「生きたいという執念がすごい」と同病院の政金生人(まさかねいくと)医師(58)。「数値が同じでも患者さんしか分からないことがある。私も渋谷さんから多くを学んだ」と感謝を口にした。透析8年目という県腎友会の玉谷直幸事務局長(58)も「医師任せにせず自ら勉強してきた先輩患者のおかげで、今の発達した医療が受けられている」と話した。
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 庭いじりをしたり、友達とのメールや電話をしたりと充実した日々を暮らす渋谷さん。しかし、今冬を前に経験したことのない手足のこわばりや痛みを感じたという。少しずつ体に異変は起きているが、受け入れて生きていくつもりだ。

 治療開始からちょうど50年となる17日を前に、病院スタッフらによる祝賀会が16日に開かれた。渋谷さんは、お祝いのケーキに立つ5本のろうそくの火を勢いよく吹き消し宣言した。「東京五輪が目標だったけど、今度は2025年の大阪万博まで頑張る」